大森海苔養殖の歴史
大森海苔養殖の歴史
文献には、海苔はそもそも平安時代の神事に使われたという記録もあり、一般的に食用として供されたのは江戸初期と考えられています。
記録によると、大森で海苔が採れ始めたのは1600年代後半の頃とみられ、もともとは浅草で小規模な自生していた海苔を採っていたものが、大森へと移っていったと言われています。その要因としては諸説あり、5代将軍綱吉の時代に浅草で禁漁が課せられ海苔漁師たちが大森へと移った、浅草での海苔販売量が増え養殖地として大森を選んで拡大していった、などがありますが、「アサクサノリ」と呼ばれていたものは大森で採っていたということがわかっています。
大森の海は海苔を養殖するのにとても適していました。流れの緩やかな広い多摩川の河口とその上流からは栄養分を含んだ淡水が流れ込んでいます。更に、東京湾に入って右回りに対流する親潮が、栄養分をたっぷり含んだまま大森付近を流れることで、海水と淡水がゆるやかに交わり、加えて干満の差も大きく、海苔の漁場として最適な条件が揃っていました。上質な海苔は、将軍への御献上海苔として、採られていたという逸話もあります。
明治に入ると大森の養殖は高度に成長し、一つの産業として、大森地域を発展させていきます。最盛期には2,000以上にも上る海苔漁家があったと言われています。太平洋戦争時は、空襲などで思うように漁ができないこともありましたが、昭和初期までは大いに栄えていきました。
大いに賑わった大森の海苔養殖ですが、昭和38年に大森の海苔養殖の歴史は幕を閉じることになります。これは当時の国の政策によるところが大きいですが、高度経済成長期のなかインフラ設備が不可欠になり、高速道路や工場などの建設で埋め立てを余儀なくされたことによります。最後の頃まで残っていた海苔船は700艘だったそうです。
昭和中期から現在までは、全国の漁場より大森へと海苔が入ってくるようになりました。全盛期には120社以上の卸問屋・海苔店がありましたが、現在では49社(大森乾海苔問屋協同組合加盟)になっています。数こそ少なくなりましたが、今でも全国で一番大きい海苔問屋街です。大森を拠点に日本全国の海苔を目利きし、味利きし、そして加工し、全国に販売しております。大森は今でも海苔流通のアクセスポイントとして重要な拠点となっているのです。